全日本のタイトルを初めて獲得して
           −第68回全日本ベテランテニス選手権大会優勝の記−
                                                      

    平成18年10月
   新制3回 佐野 健
私は終戦の翌年、昭和21年(1946年)に灘中で硬式テニスを始めて以来、全日本と名の付く大会で
そのタイトルを獲得するのに丁度60年を費やした。灘中、住高、神戸大学を通じ同年代で私よりず
っと上手い選手が沢山居たと思うが その中で何人がこのタイトルを掴み得たか。或るものはテニス
を止め、或る者は病に倒れ、テニスを継続しているものでも公式戦に参戦する機会を得ないものが沢
山居る。高校時代の対戦相手で未だに公式戦で素晴らしい成果を上げているのはほんの数名しか
思い当たらない。その点私はとても恵まれた幸せ者と言わなければならない。決して体型に恵まれ
ているとは言えないが平均体重48キロ(今までに50キロを超えたことが無い)、身長164センチ、
比較的反射神経に恵まれコートを走り回れる脚力も親から授かった。然し私はもともとストロークが
下手でシングルスは不得手、ダブルスの方が得意である。

振り返ってみると60年の間、私は高校時代に全日本と名の付くダブルスの試合2回(昭和24年度
全日本ジュニアーと同年の全国高校庭球選手権大会)、あと全日本ベテランテニス選手権大会(70
歳以上)で2回優勝戦に臨みながら敗れ、今回の75歳以上のカテゴリーでの挑戦が5度目の正直で
やっとタイトルを獲得する事が出来た。ダブルスだから当然パートナーが居る。高校時代は住高の中
村泰夫君、2001年に私に初めて全日本ベテランの出場機会を与えて頂いた神大先輩の石川哲二さ
ん(当時の様子は石川さんの第63回全日本ベテラン参戦記で述べられたので省略)、翌年、翌々年
の第64回、65回と今回第68回は何れも灘、神戸大学を通じての先輩渡邊健一さんと良いパートナ
ーに恵まれた。2001年の最初の優勝戦は石川・佐野ペアーで相手が渡邊・森(他学OB)組であった
のに対し今回は一回戦で戦った選手4人は同じだったが、組み合わせが変わり石川・森組対渡邊・
佐野組の対戦となった。みなさんにはかねて事実上の優勝戦と言われた通りセカンドセットより意表を
つく石川さんのボレー作戦と、ストレートのパスがよく決まりセットオールのファイナルタイブレークとなり
それも7−5での辛勝であった。 幸いあとQF, SF, Finalと全部ストレート勝ちで優勝出来た。

優勝戦(相手は初対面の今村・原田組)でマッチポイントのバックのクロスボレーが決まった瞬間、渡
邊先輩は“よーし、サノケンに全日本のタイトルを獲らせたぞ”“これで「正」に報告に行ける”と高らか
に勝利宣言。(「正」とは言わずと知れた灘・神戸大を通じて幾多の素晴らしい戦績を残した渡邊さんの
名パートナー 故澤松 正氏のこと。) サノケンに何としても全日本のタイトルを獲らせるとご自分に課
してこられた責任をやっと果たしたと言う誇りと安堵を持った眼差しでもって私と握手をして頂いた。この
瞬間程嬉しかった事はない。私も先輩のご期待にやっと応えられた嬉しさに思わず胸にジーンと熱いも
のがこみ上げてきた。


優勝の証のスコアーボード前で渡邊さんと

    優勝決定後 応援団に深々と頭をさげてお礼


故 澤松 正さんのご霊前に優勝の報告
左から渡邊、筆者、石川各氏

昨年は神戸大学庭球部創部百周年記念の年でもあり、76歳になられた渡邊さんに是非全日本シン
グルスのタイトルを獲って頂こうと我々一同の願いでダブルスは止めてシングルスに集中して頂き、
一昨年から二年連続での全日本ローン選手権と昨年の全日本のシングルスのタイトルを見事獲得さ
れた。しかし今年は「シングルスなんてあんなしんどいもんはもう止めた」と再び私と組んで頂き4月の
東海毎日、5月の大阪毎日の75歳以上ダブルスでスコアー的には全部ストレートと比較的楽に優勝
させて頂いた。これも渡邊さんのシングルスの戦績のお陰で、「このラケットが目に入らぬかと」水戸黄
門の印籠ではないが、相手が脅威を覚えたお陰だった。

昨年ダブルスの得点が殆ど得られていなかった我々にとってこの二つの大会で得たポイントは誠に
大きかった。と言うのは8月後半の関西オープンベテラン大会の開始日10日ほど前に、あろう事か渡邊
先輩が憩室炎(大腸・直腸に出来る小さな袋状の突起が炎症を起こす謂わば盲腸炎に似た病気)にか
かられ10日ほど入院加療されると言うハプニングがあり大会は棄権せざるを得ず、将に鬼の霍乱であっ
た。根がお丈夫な渡邊さんの事ゆえ、退院後見る見るうちに回復され9月にはいつもの練習に復帰され
るまでになられた。責任感のお強い渡邊先輩は全日本の出場権獲得が危ういのではないかと心配され
たが此処で前記の二大会のポイントがものを言い、本大会で16ドローの内No.4シードが付く事になった。
そしてこの事が本年大毎以外殆どダブルスに出場せず余りポイントの無かった石川・森組にシードが
付かず、皆から我々2組の対決が事実上の優勝戦と言われた対戦が、理論的には僅か15分の1の確率
にも拘わらず なんと1回戦で激突する事になった。石川・森ペアーの唯一出場公式戦である5月の大毎
優勝戦でも対戦し我々ペアーが6−2,6−2のストレーとで勝ったが 審判にも“スコアー程簡単な試合
ではなく どちらが勝ってもおかしくない好ゲームだった”と言わしめたほどの接戦だった。あれで石川先
輩の体調さえ良ければもっと競ったゲームになって居たことであろう。

名古屋 東山公園テニスセンターにて
熱戦中の我がペアー

今回私が初めて全日本と名の付くタイトルを獲得出来たのは石川・森組との実質上の優勝戦が初戦で
私が体力的にも気分的にも比較的余裕が有った事など色々な要素が絡み合っているが、何と言っても
一番の勝因は渡邊先輩の「サノケンに何としてでも全日本のタイトルを獲らせてやりたい」という親心に
も勝る強い思いやりが有ったからこそ実現出来たと深く感謝している。私も何とか此の思いやりに応えな
ければと頑張ったが, そのプレッシャーは渡邊さんが感じておられたプレシャーに比べれば何ほどの事で
も無かったろう。其れがマッチポイントの決まった時の渡邊さんのご発言となったものであろう。60年の努
力がやっと報われた瞬間だった。渡邊さん、本当に有り難う御座いました。

それに優勝戦には渡邊さんの奥様と二人のお嬢様が遙々東京、明石から応援に馳せ参じて頂き、また
KUTC名古屋の番記者片岡氏を初め芦屋LTCのメンバー他多くの方にご声援を頂き心強く、思う存分の
プレーが出来ました。

家族あってこそ優勝できた! 渡邊さんご家族と
“勝ったで!”と一言入れた留守電に後で家内から“おーめでとー!”と一言弾んだ電話が架かってきた。
その声は忘れられない。長い間のテニスウイドウにも少しは許して貰えたかも知れない。

後日談だが、全日本直前の10月11日に灘の連中の親睦ゴルフが六甲山の神戸ゴルフ倶楽部で行わ
れ東京からも多くの同輩が参加した。私も幹事として参加せねばならなかったが全日本を理由に前夜
祭のみ参加でプレーは勘弁して貰った。全く違う筋肉を使うゴルフをして調子が狂っては申し訳ないの
とアップダウンの厳しいコースで足でもぐねっては大変という思いもあった。その話を渡邊さんにしたら
わしも庭の手入れで電気バリカンで手を切ってはいけない、脚立から落ちて怪我したら大変と偉く気を
遣った。これで安心して庭の手入れも出来ると言われた。本当に今回の試合にはお互いに精魂を傾け
て立ち向かった事の証と思う。


                                                    以上